2026.6.22

南風原20号壕とは?知っているつもりだった沖縄戦

南風原20号壕

沖縄戦について知っていますか?

沖縄で暮らしていると学校で学ぶ機会も多く、「知っている」と自信がある人は少なくないでしょう。私自身もその一人でした。

「沖縄戦」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、激戦区の首里や最後に追い詰められた人が多かった南部方面のこと、施設としては平和祈念公園やひめゆりの塔ではないでしょうか。もちろん、それらは沖縄戦を知るうえで欠かせない場所です。

けれど今回、取材で訪れた南風原文化センターで私は初めて知ることがたくさんありました。

南風原黄金森が陸軍病院だったことを私は知りませんでした

南風原戦況

かつて南風原が激戦区であったこと、南風原黄金森公園が、かつて陸軍病院だったこと。
恥ずかしながら私は知りませんでした。

実際に壕へ入り、暗さや湿度、風のなさを体感しながら話を聞いたことで、これまで教科書で見てきた沖縄戦とは違う景色が見えてきました。

今回は、慰霊の日を前に訪れた「南風原:20号壕」で知ったこと、感じたことをお伝えします。

南風原が激戦地だったことを初めて知った

壁一面に書かれた戦没者名

(壁面ぎっしりに書かれた戦没者名)

沖縄戦について学校で学んだ記憶はあります。南部が激戦区だった認識もあります。でも、南風原が重要な戦地で軍事病院があったという認識は恥ずかしながらありませんでした。

今回、南風原平和ガイドの案内を受けながら話を聞き初めて知ったのが、南風原は交通の要所であり、多くの拠点が置かれていた地域だったということです。

那覇・首里方面と南部をつなぐ位置にあり、戦況の中で重要な役割を担っていた南風原。

その中で重要な施設のひとつとしてあったのが黄金森に置かれた陸軍病院です。

南風原20号壕とは?黄金森に残る陸軍病院跡

20号壕入口

沖縄戦の最中、押し寄せるアメリカ軍の攻撃から逃れ、傷病兵を収容するために作られたのが「南風原陸軍病院壕」です。黄金森の丘陵地帯に掘られたこの壕は本部壕や第1から第3外科、内科などに分かれていました。激しい戦火の中、戦傷兵や医療スタッフ、そして看護要員として動員された学徒たちがひしめき合う文字通りの「戦場の中の病院」です。そのなかで唯一形を残し現在一般に公開され、当時の姿を今に伝えているのが「20号壕」と呼ばれる場所です。

20号壕説明

黄金森には多くの壕が存在していた

20号壕群説明

もともと黄金森は、地域の人々が自然とともに暮らす平穏な生活の拠点でした。そこに、つるはしを使って人工的に掘り進められたのが、これらのガマ(壕)です。自然の洞窟(鍾乳洞)とは違い、人の手で無理に掘られた土の壁は非常に脆く、当時は30近くの壕が存在していたと言われるその多くは時代の経過とともに自然崩落してしまいました。いま私たちが目にすることができる20号壕は激しい戦火と長い年月のなか残った本当にわずかな戦争遺構なのです。

実際に20号壕へ。壕の中で感じた“病院だった戦場”

案内の方の説明に耳を傾けながら、私は生まれて初めて壕の中へと足を踏み入れました。入った時の空気感、ガイドの方が語る壕の中に残された跡と歴史は心の奥底へと重く沈んでいきました。

薄暗い壕の中

暗さ・湿度・風のない壕の空気

一歩入って驚いたのは、その湿度のすごさです。そして風がないこと。じっとりと肌にまとわりつく空気と暗さは立っているだけで息が詰まりそうになるほどでした。当時はここに粗末で固い木製のベッドが二段ギチギチに組まれ、通路はさらに狭かったといいます。風が通らず、高湿度の密閉空間に怪我人の匂いと苦しむ声が充満していたのだと語るガイドの方の声から当時を想像し、なんとも言えず、言葉がでませんでした。

内科から外科へ変わった野戦病院

この20号壕は、最初は「内科」と「外科」の両方を受け持つ病院だったそうです。しかし、戦況の悪化にともなって怪我人が爆発的に増え、最終的には「外科」へと変わらざるを得なくなりました。それはつまり、運ばれてくる患者のほとんどが、砲弾などによるひどいケガを負った一刻を争う重傷者ばかりになったということを意味しています。

患者

「すぐ帰れる」と思っていたひめゆり学徒たち

この外科壕となった極限状態の空間で、主に働かされていたのは「ひめゆり学徒隊」をはじめとする、まだ10代の若い女の子たちでした。

10代の少女たちが担った看護

今でいえば、まだ中学生や高校生にあたる年齢の女の子たちが過酷な外科の看護要員として駆り出されました。彼女たちを待っていたのはつらい労働です。

ひめゆり学徒説明

櫛や鏡を持ってきた理由

壕へ向かうとき、女の子たちは「すぐに帰れる、ちょっとしたお手伝いのつもり」で学校を出たといいます。彼女たちの荷物の中には、いつも通り髪を整えるための櫛や鏡、そして勉強をするための筆記用具や本が入っていました。展示資料として、その日常の延長線にある持ち物の存在を見るのはとてもつらかったです。

実際には怪我人がうめく暗闇の中で重症患者の看病を担い、砲弾の中を行き来してごはんを運ぶ作業を行うことになりました。

“飯上げ”として砲弾の中を走った

飯上げイメージ

彼女たちの仕事は壕の中の仕事だけにとどまりませんでした。激しい砲弾が飛び交う外へ飛び出し、患者たちの食事を運ぶために走る「めしあげ(飯上げ)」という命がけの任務もありました。一歩外に出ればいつ命を落としてもおかしくない状況のなか、10代の少女たちがどれほどの恐怖のなかでごはんを抱えて走っていたのでしょうか。いまでも彼女たちが走ったとされている道は残っています。実際に歩いてみると、鋭い角度の傾斜と鬱蒼とした植物が生える道は何も持たずにただ歩くだけでもとても大変でした。

実際の飯上げの道
鬱蒼としている飯上げの道

今は静かな黄金森。だからこそ感じたこと

壕の中を歩き当時の出来事に触れたあとで外に出ると、目の前にはのどかな緑が広がっています。その風景の見え方も、壕に入る前と後ではまったく違うものになっていました。

現在の黄金の森

かつて生活の場だった黄金森

もともと黄金森は人々の生活の場でした。そこが戦場になり、つるはしで穴を掘られ、壕が作られていきました。人工で作られた壕の多くは自然崩落などでなくなってしまい、現在見学できる形で残っているのは20号壕のみ。壕の中を見上げると、壁や天井が炭化して真っ黒に変色しています。壕が避難で放棄されたあと、攻撃によって壕の中が激しい炎で焼き尽くされたからです。その焦げた痕跡はいまも生々しく壁に残っています。

壕を掘ったつるはし

戦後に育った木々と壕に伸びる根

壕の説明と木の根

いま黄金森は公園として整備され、大きな木々や草木が生い茂り、とても穏やかな空気が流れています。しかし、その大きな木々はすべて戦後になってから生えたものです。

人工的に掘られた土主体の壕には、地上の木々の根が壕の天井を突き抜けて中へと力強く伸びてきています。その木の根に戦後の沖縄がどれほどの生命力で緑を取り戻してきたのかを感じました。植物の生気すらも壕の土に眠る歴史と繋がっているのだと感じずにはいられません。

いつか失われるかもしれない場所

自然の鍾乳洞(ガマ)とは違い、人の手で無理に掘られた土の壕は、常に崩落の危険と隣り合わせです。当時30近くあった壕が、いまや20号壕しか残っていないのがその証拠です。

この20号壕も保全のために一部改修されていますが、それはあくまで「後世に残すため」の最低限の処置にすぎません。形ある遺構はいつまでもそこにあるわけではないのです。いつか崩落して、見られなくなってしまうかもしれない。だからこそ「いま、形があるうちに」私たちが足を運ぶことには大きな意味があります。

なぜ20号壕は今も残されているのか

戦争が終わったとき、この壕の中には戦争の現実が多く残されていました。

埋められていた薬瓶

壕内の木材をも回収した、戦後の壮絶な復興期 

軍の指示に従い壕を出ることになったとき、壕の中で働いていた学徒たちは「自力で歩けない重症患者たちはあとからトラックで運ぶから」と聞かされ、気にかけながらも壕を出ました。しかし実際にはトラックなどはこなかったそうです。その後、壕に残された患者の方々に何が起きたのかは現地に足を運び、20号壕でガイドさんから話を聞いたり、南風原文化センターの資料館で学んだりすることで知ることができます。気になる方はぜひ学ぶためにも現地を訪れてください。

戦争が終わったあと、生き残った人々は戦後の凄まじい貧困のなかで復興のために黄金森へ戻ってきました。南風原平和ガイドの方から伺った話によると、戻ってきた方々は生きるため木材を回収しようと、遺体が横たわって炎で焦げた雑な作りの木製ベッドから遺骨を片付け、木材を持って帰ったといいます。攻撃で焼けていた木材すらも、回収せざるを得なかった。それほどまでに、戦後の人々は生きるために必死だったのです。

南風原歴史

戦争体験者が残そうとした記録

壕内に残された木材さえ、生きるために貴重な資材として利用された時代から時が経つにつれ、人々はこの場所を「保全しよう」という動きを見せるようになっていきました。

埋めて忘れてしまいたくなるような凄惨な記憶が染み付いた場所であるにもかかわらず、なぜそこに戻ってきた人々はこの壕を遺そうとしたのでしょうか。もしかしたら、戦争体験者がいつか一人もいなくなってしまう未来を見据えて、「この場所を、この事実を、どうしても後世に残さなければならない」という強い思いが、当時の人々を突き動かしたのかもしれません。

自らの手でこの壕を保全し、つらい記憶をあえて振り返りながら証言を資料として記録していった先人たち。そんな彼らの「何としても伝えたい」という執念に似た願いがあったからこそ、自然崩落の危機に瀕しながらも、いまこうして20号壕が形を残しているのではないでしょうか。

歌碑
平和を願う石碑

いまも電気を引かない理由

そしてその先人たちの思いは今も引き継がれています。今でも20号壕にあえて電気が引かれていない理由が、そこにあります。

綺麗に飾り立てるのではなく「当時の人々が感じていた本当の暗闇をそのまま残す」。ありのままを伝えようと、意志を受け取った人たちがいるからです。

意志を受け取った現代の繋ぎ手たちが今度は伝える側に立ってバトンを引き継いでいます。「思いのリレー」がいまも現在進行形で続いているからこそ私たちはあの暗闇の中の当時と変わらない空気に触れ、学ぶことができます。

20号壕外観

保存ではなく“受け取る”場所

壕を出たあとは「南風原文化センター資料館」へもぜひ立ち寄ってみてください。数々の展示物、戦争体験者の話を映像や文字で見ることができます。

その展示物や資料は、つらい記憶を振り返り、身を切るような思いでその証言や資料を私たちに遺してくれた先人たちの「生きるエネルギー」と「願い」そのものです。

南風原文化センター

私は沖縄県民として、“沖縄戦を知っているつもり”だった

有名なひめゆりの塔や平和祈念公園に行くことにももちろん大きな意味があります。そちらの資料もすごく勉強になりました。しかし、この南風原の壕に入って、その場に立ち、風のない空気を肌で感じて話を聞き、資料館で見た展示物の重みは、まったく別のものでした。

現地へ行く意味

正直に言えば、足を運べば心はひどく重くなります。目を背けたくなるような事実ばかりです。それでも、私は沖縄県民として歴史を知るべきだと心から思いました。教科書をめくり文字を読む、映像を見るだけでは絶対に得られない学びが、あの暗闇の中には確かに漂っているからです。

「思想」ではなく「何が起きたのか」を知る大切さ

あの時代に、あの場所で「何が起きたのか」。そして当時の人が何を体験し、どんな思いでつらい記憶を振り返って証言を遺し、この壕を現代に残してくれたのかという、その事実と思いのバトンをまっすぐに受け取ることが大切だと心から思いました。

ネットの記事や、テレビの画面、教科書の文字を読み、知ることは簡単です。しかし、いつか失われてしまうかもしれないその場所に、いま自ら足を運んでみてください。耳を傾け、自分の目で実際の場所を見て、跡にふれて、その場に立ってみてほしいのです。

そこで何を感じるかは人それぞれです。その思いや学びをあなた自身のなかでどうか大切にしてください。

施設情報

南風原文化センター入口
施設名:南風原文化センター 展示棟
住所:南風原町字喜屋武257番地
駐車場:広い無料駐車場が施設前にあります
料金:一般(小学生150円/中高生200円/大人300円) ※南風原町民無料/町外団体割り有/20人以上~
電話番号:098-889-7399 
公式インスタグラム:https://www.instagram.com/haebaru_museum_official
公式HP:https://www.town.haebaru.lg.jp/site/kankou/12657.html

(2026年6月時点情報)

20号壕の入口近く
施設名:沖縄陸軍病院南風原壕群20号
見学方法:HPより見学申し込み必須 ( https://www.town.haebaru.lg.jp/site/kankou/2898.html )
※予約後は”南風原文化センター”から予約可否連絡があります
見学者個人団体(20名以上)
南風原町内小中高生50円無料
一般200円150円
南風原町外小中学生100円50円
高校生200円150円
一般300円250円
申し込んで当日は南風原文化センターではなく壕現地(若干文化センターから外れた場所)に集合です。
近くの陸上競技場に車を停めて歩いて向かう形となります。
詳しい行き方は南風原文化センター公式Instagramをご確認ください。

(2026年6月時点情報)

関連記事
沖縄の伝統文化を知る!歴史・芸能・祭りの魅力について紹介!
沖縄の伝統文化を知る!歴史・芸能・祭りの魅力について紹介!
皆さんは自身の故郷の伝統文化に触れたことはありますか?伝統文化は昔ながらのその土地の環境に合わせた独自の文化が育まれてきています。そんな中で沖縄の伝統文化は日本本土と異なる歴史や文化を強く持つ地域です。かつて琉球王国とし…
関連記事
琉球王国の世界遺産を巡る!歴史と文化に触れるスポット完全ガイド
沖縄に来たなら一度は触れておきたい「琉球王国」の歴史と文化。かつてアジアとの交易によって独自の王国文化を築いた琉球は、今もなおその面影を多くの遺産に残しています。2000年には「琉球王国の城および関連遺産群」がユネスコ世…

この記事を書いた人

まーくん
まーくん
カメラマン歴14年。生まれ育った沖縄の歴史的建造物や伝統行事、街並みをレンズで記録し続けてきました。プロの視点で切り取ってきた沖縄だからこそ、観光ガイドには載らない文化の奥行きや、地元に根づく風景の魅力を伝えられると思っています。「こんな沖縄、知らなかった!けっこういいじゃん」と感じてもらえる記事を執筆してます。

for PARTNER

沖縄ナビ®は沖縄県民のための
沖縄総合スーパーアプリです。
うちな~んちゅの輪を通じて生まれた
沖縄のリアルな“今”の情報をあなたに届けします!
沖縄ナビ®は、沖縄県内で事業を推進する
皆様と協力し、ユーザーに鮮度の高い情報を
お届けしています。
掲載希望、サービスの連携等、ご相談はお気軽に!
沖縄県にお住まいの皆様に地域の最新情報、
みんなに届けたい告知、
イベント情報、地域の
皆様に向けた様々なコンテンツを発信しています。

アプリ画面イメージ

今すぐダウンロード!