
1944年8月22日、沖縄から九州へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県トカラ列島・悪石島沖で沈没しました。
現在判明している犠牲者は1,484人。そのうち784人は親元を離れて疎開する途中だった学童です。
那覇市若狭、波上宮や波の上ビーチの近くにある「対馬丸記念館」では、事件の経緯だけでなく船に乗っていた子どもたちの遺影や遺品、当時の学校生活、生存者や遺族の証言などが伝えられています。
今回沖縄ナビでは対馬丸記念館を訪れ、兄2人を対馬丸で亡くした遺族であり、長年その記憶を伝えてきた渡口眞常さんの講話を伺いました。
「1,484人が犠牲になった」という数字の向こうには、一人ひとりの生活があり、その後を生きた家族や生存者がいます。
対馬丸とは、どのような船だったのでしょうか。なぜ、多くの子どもたちが乗っていたのでしょうか。
当時の出来事と、今も語り継がれている記憶をたどります。

対馬丸とは?沖縄の子どもたちを乗せた学童疎開船
対馬丸事件が起きたのは、沖縄戦が始まる前年の1944年です。
太平洋戦争で日本軍の敗戦が続き、同年7月にはサイパン島が陥落。
沖縄でも戦闘が起きる可能性が高まっていました。
政府は沖縄県などの子どもや高齢者、女性を県外へ移す疎開を進め、沖縄では九州と台湾への疎開が計画されます。
その中で行われたのが「学童集団疎開」です。
原則として国民学校3年生から6年生までの児童が対象となり、学校の先生にあたる「訓導」とともに親元を離れて県外へ向かいました。
対馬丸記念館の学習資料では、疎開には子どもたちの安全や教育の場を確保する目的がある一方、戦闘に備えて沖縄の人口を減らし、防衛体制を整えるという戦時下の事情もあったことが説明されています。
1944年8月21日、那覇港を出航

1944年8月21日、対馬丸は和浦丸、暁空丸、そして2隻の護衛艦とともに那覇港を出航しました。
目的地は長崎です。
当時の対馬丸は、建造から約30年が経過した貨物船でした。
海上にはすでにアメリカ軍の潜水艦が出没しており、航海そのものにも危険がありました。
それでも多くの子どもたちとその家族が、戦場になる可能性が高まっていた沖縄を離れるため船へ乗り込みました。

8月22日夜、悪石島沖で魚雷攻撃を受ける
出航翌日の8月22日午後10時12分ごろ、対馬丸は鹿児島県トカラ列島・悪石島の北西沖でアメリカ軍の潜水艦「ボーフィン号」の魚雷攻撃を受けました。
攻撃されたのは、多くの乗船者が眠っていた夜。
対馬丸は10分ほどで沈没。
船内から逃げることができなかった人も多く、海へ脱出できた人たちも漂流を余儀なくされました。
現在判明している犠牲者は1,484人。
そのうち学校に通っていた学童は784人です。
さらに学童以外の乳幼児なども含め0歳から15歳までの子どもの犠牲者は、1,040人にのぼります。


子どもを疎開させるか――親たちが迫られた決断
対馬丸について話を伺い、資料を読み、知っていくなかで考えずにはいられなかったことがあります。
もし、自分の子どもだったら、どうしただろう。
当時の親たちは、簡単に「安全な場所へ送り出す」という判断ができたわけではありませんでした。
沖縄に残れば、戦闘に巻き込まれるかもしれない。
一方で、九州へ向かう海にはアメリカ軍の潜水艦がいることも知られていました。
残ることにも、疎開することにも命の危険があったのです。
対馬丸記念館の学習資料でも、親たちは「行くも残るも命の危険を伴う」状況の中で、大きな決断を迫られたことが紹介されています。
今回講話をしてくださった渡口眞常さんの家族も、その一つでした。

渡口さんの兄2人は10歳と8歳のとき対馬丸に乗り、亡くなりました。
渡口さんによると、ご両親は2人の息子を疎開させるかどうか最後まで悩み続けたといいます。
講話では、対馬丸に関する文献に寄せられた渡口さんのお父様の文章も紹介されました。
そこには、息子たちを疎開させる決断に至るまでの葛藤と、2人を失った後も長く抱え続けた後悔が記されていました。
たとえ自分の目に届かないところに行くとしても、危険から遠ざけたい、生きていてほしい。
そのために選んだ疎開でした。
親たちがどのような思いで子どもを送り出し、対馬丸が沈没したという知らせを受けたのか。
残された文章からは当時の決断がその後の人生にも長く影響したことが伝わってきます。
船に乗ったのは、普通に学校へ通っていた子どもたち
対馬丸記念館で印象に残ったのは、事件の経緯を説明する資料だけではありませんでした。
子どもたちが使っていたランドセルや教科書、宿題、手紙、作文、絵。
そこには、続いていた子どもたちの日常があります。


疎開する子どもたちのなかには、「ヤマトへ行けば雪が見られる」「汽車に乗れる」と楽しみにしていた子もいたことが、当時の証言から分かっています。
親元を離れる寂しさを抱えながらも、旅の先にある新しい生活を思い描いていた子どもたち。
館内で絵や学用品を見ていると、「学童784人」という数字の前に、学校へ通い、宿題をし、絵を描き、友達と遊んでいた一人ひとりの姿が浮かびます。
対馬丸に乗り込んだ子どもたちも、その先に日常が続くと思っていたはずです。
沈没した日で終わらなかった、家族の時間
対馬丸事件は、1944年8月22日で終わった出来事ではありません。
残された家族や生存者の生活には、その後も長く影響を残しました。
渡口さんの母親も、その一人です。
兄2人を海で亡くしたあと、母親は三男である渡口さんが海へ遊びに行くことを許しませんでした。
同級生に誘われても「行ったらだめ」と止められたそうです。

渡口さんは講話の中で、自分まで同じように海で亡くなることを、母親は恐れていたのだろうと振り返りました。
一方、当時子どもだった渡口さんも幼心に「何かあったときに、自分も溺れて死ぬわけにはいかない」と考えていたそうです。
当時は家庭に風呂がなかったため、朝早く銭湯へ行き大きな浴槽で一人でこっそり水に浮く練習をしたそうです。
体の力を抜き、仰向けになり、鼻と口を水面から出す。そうして少しずつ、水に浮く方法を覚えました。
それでも渡口さんは、今も足のつかない場所へ行くことには怖さがあると話します。
兄2人を失った出来事は、家族のその後の暮らしにも残り続けました。
生き残った人にも残り続けた記憶
対馬丸には、助かった人もいました。
渡口さんは講話の中で、助かった人にもその後の苦しさがあったことを伝えています。
その一つが、小桜の塔で行われる慰霊祭についてのエピソードです。
対馬丸記念館の近くには、対馬丸をはじめ沖縄戦で亡くなった学童や教師を慰霊する「小桜の塔」が建っています。

慰霊祭は当初、生存者も参加していました。
ところが遺族と顔を合わせると、亡くなった自分の子どもと重ねるように抱きしめられたり、その姿を見て涙を流されたりすることがあったといいます。
遺族の深い悲しみに触れることは、生き残った人たちにとっても、あの日の記憶や思いを強く呼び起こすことにつながったのかもしれません。次第に慰霊祭へ参加しなくなった生存者の方もいたそうです。
家族を失った遺族の悲しみ。
そして、生き残った人が抱え続けた記憶。
それぞれの立場に、それぞれ異なる苦しさが残り続けていました。
語ることが、対馬丸の記憶を未来へつないでいる


対馬丸事件から長い年月が経ちました。
その間、出来事を語ることができなかった人、長く沈黙していた人もいます。
それでも対馬丸の記憶が現在まで残されているのは、生存者や遺族、関係者が少しずつ証言や資料を残してきたからです。
渡口さん自身も兄2人の姿を知ることができるのは残された家族写真など、ごく限られた資料だけだと話しました。
対馬丸記念館では、遺族や生存者、その証言を受け継ぐ人たちによる語り部活動が続けられています。

講話の内容も、語り部全員が同じではありません。
渡口さんによると、それぞれが対馬丸事件を自分なりに理解し、自身の経験や受け止め方を通して伝えているといいます。
今回、資料を読むだけでは知ることのできなかった家族の話を直接聞いたことで、対馬丸が「過去の歴史上の出来事」ではなく、一人ひとりの人生に起きた出来事であることを改めて感じました。
思い出すことも、言葉にすることもつらい記憶を、それでも残してきた人たちがいます。
その人たちの想いを受け取るのは今を生きている私たちでなければならないと思います。
対馬丸記念館が伝える「子どもと平和」

対馬丸記念館のテーマは「子どもと平和」です。
館内は2階から入館し、1階へ降りながら展示を見る構造になっています。


建物は船をイメージして設計され、2階へ上がることは対馬丸へ「乗船する」ことを表しています。
展示を進むと、事件の経緯だけでなく、犠牲となった人たちの名前や遺影、遺品、当時の教室、生存者の証言などを見ることができます。
渡口さんは講話の最後に、命をつないでいくためには平和であることが必要だと話しました。
家族と食事をすること。
学校へ行くこと。
友人と遊ぶこと。
旅行へ行くこと。
明日の予定を立てること。
普段は特別だと思わない日常も、それを続けられる環境があって初めて成り立ちます。
今回の取材で印象に残ったのは、戦争の中で失われた一人ひとりの生活と、その記憶を残そうとしてきた人たちの姿でした。
対馬丸について知ることは、過去の事件を学び覚えることだけではありません。
今ある日常について、立ち止まって考えてみる。
対馬丸記念館は、そのきっかけを与えてくれる場所です。

対馬丸記念館の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 施設名 | 対馬丸記念館 |
| 所在地 | 沖縄県那覇市若狭1丁目25番37号 |
| 開館時間 | 9:00~17:00(最終入館16:30) |
| 休館日 | 毎週木曜日、年末年始(12月31日~1月3日) |
| 入館料 | 大人500円/中・高校生300円/小学生100円 |
| 団体料金 | 有料来館者20名以上は10%割引 |
| 電話番号 | 098-941-3515 |
| 公式サイト | 対馬丸記念館公式サイト |
※開館時間や料金などは変更される場合があります。来館前に公式サイトで最新情報をご確認ください。
事前申請で語り部による講話を聞くこともできます

対馬丸記念館では、事前に申請することで語り部による講話を聞くことができます。
講話は原則として開館時間内の9:00~16:30に行われ、館外への講師派遣も受け付けています。
今回の沖縄ナビの取材でも事前に申請を行い、渡口眞常さんから直接お話を伺いました。
展示に加えて、遺族や生存者、その証言を受け継ぐ人の言葉に触れることで、資料だけでは分からない家族の時間や事件後の人生を知ることができます。
講話を希望する場合は公式サイトから申請書をダウンロードし、余裕を持って記念館へ申し込みましょう。
語り部の都合などにより、希望の日程に添えない場合があります。
申請方法や対応可否は、対馬丸記念館の各種申請書・印刷物ページでご確認ください。
知ることから、平和のバトンをつないでいく
対馬丸記念館の近くには、戦時中に海で命を落とした人々を慰霊する「海鳴りの像」もあります。
沖縄から出発し沈没した船は対馬丸だけではありません。
その一人ひとりに家族がいて、失われた後も続いた人生があったのでしょう。

対馬丸記念館がある若狭や波の上周辺は、沖縄に暮らす人なら一度は近くを通ったことがある場所かもしれません。
しかし、実際に対馬丸記念館へ入ったことがある人、対馬丸の遺族や生存者の話を聞いたことがある人はどれくらいいるでしょうか。
対馬丸以外にも多くの船が沈み、そこに数え切れないほどの生活があったことを、私たちはどれくらい知っているでしょうか。
もし、自分の子どもや大切な人を疎開させなければならない状況になったら、どのような決断をしますか。
送り出したあと、どのような思いで帰りを待ちますか。
まずは対馬丸について知り、そこで生きていた人や残された家族のことを想像してみる。
それも、過去の記憶を次の世代へつなぐ一歩になるのだと思います。
私たち一人ひとりが知り、考え、次の世代へ伝えていくことが、平和のバトンをつないでいくことにつながるのではないでしょうか。

2026.8.21

