
失礼ながら取材前の私にとって久高島は「なんとなくスピリチュアルな島」でした。
「行くと浄化される」「生まれ変わる気持ちになる」「呼ばれないと行けない島」。
そんな噂は聞いたことがあっても、なぜ神の島と呼ばれるのかは知りませんでした。立ち入りができない場所も多く、どこか秘密主義な島という印象です。
実際に歩いてみると島には御嶽(うたき)と呼ばれる祈りの場所がいくつもあります。
正直なところ普段の生活で御嶽にあまり馴染みのない私には看板だけではどんな場所なのか分かりませんでした。
ガイドさんなしなら立て看板やサイトを見て「へえ〜、なんかすごい」で終わっていたと思います。
ガイドさんから聞いたのは琉球王国と久高島の関係や、海や太陽に向けた祈りの話。
島の人たちが場所や行事を大切にしてきたことも教わりました。集落を歩けば学校や商店があり、今も人々の暮らしがあります。
この記事ではガイドさんに教わったことと本(写真家・比嘉康雄さんの『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』)や公的な資料で知ったことを交えながら、実際に島を歩いて私が感じたことを綴ります。

久高島が「神の島」と呼ばれる理由
久高島には琉球の始まりや五穀の伝来を語る伝承があります。
琉球国王や聞得大君が祈りに訪れ、島ではノロや神人たちが祭祀を担ってきました。そして今もその場所を大切にしながら暮らす人たちがいます。
取材で知ったことを私は次の五つの視点から見ていきたいと思います。
- アマミキヨたちによる、琉球の始まりを語る伝承
- イシキ浜に届いた五穀の物語と、自然への祈り
- 国王や聞得大君と久高島を結ぶ歴史
- ノロや神人たちが担い、受け継いできた祭祀
- 土地や海、家や祖先を大切にする、今も続く暮らし
琉球の始まりを語る、アマミキヨの島
久高島が「神の島」と呼ばれる理由の一つに琉球の始まりを語る伝承があります。
島をつくり、人が暮らすようになるまでの物語が久高島と結びつけて伝えられてきました。
アマミキヨとシネリキヨとは?
琉球の国づくりや島づくりの神話に登場するのが、アマミキヨとシネリキヨです。
南城市の資料にも二柱の神による国づくりの物語が紹介されています。
ガイドさんから話を聞いた場所には神の来訪や島づくりに関わる名前が残っていました。
久高島のなかでは単なる神話や昔話ではなく実際の場所とともに大切な歴史として伝えられてきたのだと分かります。
私にはイシキ浜がしっくりきた
アマミキヨが降臨あるいは上陸した場所としてよく知られているのは、島の北端にあるハビャーン(カベール岬)です。久高島の公式サイトでもその伝承が紹介されています。


しかし、実は最初に降り立った場所としては諸説あり、そのひとつがイシキ浜です。
ハビャーンとイシキ浜の両方に実際に足を運び、ガイドさんから話を聞きました。
聞いたうえで、私にはアマミキヨが降り立った場所としてイシキ浜がしっくりきました。
イシキ浜で見た海と空の綺麗さ。
「水平線ってこういうことを言うのか」と心から思う、太陽の輝く空と青い海が交わるきれいな風景。
自然や太陽を大切にしてきた久高島で日の昇る東の海の向こうから神が来るという話を聞くと、この浜にこそ、その姿を思い浮かべやすかったのです。

イシキ浜に届いた五穀と、海の向こうへの祈り
イシキ浜では食べ物の始まりにまつわる話も聞きました。
海の向こうから穀物が届いたという物語と、実りや人の無事を願う祈りがこの浜に伝わっています。
海から五穀が届いたという伝承
イシキ浜には海の彼方から五穀の種が入った壺が流れ着いたという伝承があります。
壺を拾う前に身を清めたとされるのが島の西海岸にある井泉・ヤグルガーです。
フボー御嶽の近くにあります。そして壺の中の麦の種を最初に蒔き、壺を埋めた場所がハタスと伝わります。
海から種が届き、水で身を清めて畑に蒔く。
浜だけで話が終わらず、島の水場や畑にも食べ物の始まりを語る場所が残っています。
ウプヌシガナシーとは
イシキ浜で行われる祈りの行事に「ウプヌシガナシー」があります。
旧暦2月の「御願立て」と、12月の「御願結び」が対になった行事です。
ガイドさんによると、海の向こうの神々を迎えて五穀豊穣や男性たちの健康を願い、年末には一年間の感謝を伝えて送り出すのだそうです。ガイド友の会の案内でも健康や航海の安全を願う行事として紹介されています。
お願いをしたらそれで終わりではない。
一年を無事に過ごせたことや恵みを受け取ったことに年末には感謝を伝える。
海へ出る人たちやその帰りを待つ家族にとって、どれほど大切な祈りだったのでしょうか。
ガイドさんに教わった祈り方と、石の意味
浜でガイドさんは石の前に立ち、手を合わせてすり合わせる祈り方を教えてくれました。
石は祈る位置を示す目印で、祈りを向ける先は海の向こうだという説明です。
目の前の石そのものを神として拝むわけではないという話が印象に残りました。
私はそれまで祈りといえば仏像のような目に見えるものを思い浮かべていたからです。
麦の実りを願う石の意味も教えてくれました。
サンゴではない丸みのある硬い石。まだ柔らかい麦の実が、その石のようにしっかり硬くなるように願うのだそうです。
浜に立って海の向こうへ実りや大切な人の無事を願う。
手を動かして祈りながら、海の向こうに向けた祈りは遠い神様への願いであると同時に身近な人や日々の暮らしを思う気持ちでもあるのだと感じました。

ニライカナイ、久高島でいうニラーハラー
祈りの向かう海の彼方にはニライカナイと呼ばれる世界があると考えられてきました。
神々や祖先に関わり、豊穣や恵みがもたらされる世界です。久高島ではニラーハラーとも呼ばれます。
五穀の種が入った壺が海の向こうからイシキ浜へ届いたという伝承もこの考え方につながります。
海を眺めるときに島の人たちは水平線の向こうにどんな世界を思い描いてきたのでしょうか。

東の海への祈りと、西を向くお墓
もう一つ印象的だったのがガイドさんに案内されたお墓です。
私が見た久高島のお墓はすべて西の日が沈む方角を向いていました。
ガイドさんは太陽が昇る東は人が生まれる方角、沈む西は死に関わる方角だと教えてくれました。
東の海へ向ける祈りだけでなく、お墓の向きにも太陽の動きに重なる考え方がある。久高島で暮らす人々は日の出や日の入りをずっと身近に感じていたのかもしれません。
太陽や月、海、家の火や毎日の水にどんな願いを向けてきたのかはこちらの記事で詳しく紹介します。
海を渡って久高島へ祈りに来た
久高島と深く関わってきたのは島に暮らす人たちだけではありません。
琉球王国の国王や王府の女性神職の最高位にあたる聞得大君(きこえおおきみ)もこの島を訪れていました。
政治の中心は首里。それでも王は島を訪れた
取材で気になったのは、「首里でも祈れるはずなのに、なぜ国王がわざわざ海を渡ってきたのか」ということです。
久高島は首里から見て太陽が昇る方角にある島です。
ガイド友の会もその位置関係を「神の島」と呼ばれる理由の一つに挙げています。
東の海の彼方は、神々が住み、豊穣や恵みをもたらすニライカナイの方角。
南城市が公開する歴史解説でも久高島がその方角にあることから神々に近い聖地として位置づけられたと紹介されています。
お墓の向きだけでなく王府が大切にした島の位置にも太陽が関わっている。そのことからも太陽が人々の暮らしや信仰の中でどれほど大切にされていたのかが伝わってきました。
さらに、島に伝わる麦も王府との関係を知る手がかりになります。文化庁の解説は久高島で収穫した麦を王府へ献上したことと国王が島へ祈りに訪れるようになったことを結びつけた記録を紹介しています。
五穀の始まりが語られる島へ国王たちが実りに関わる祈りのために訪れる。王府にとって久高島がどれほど大切な場所だったのか、思っていた以上に深い関係があることに驚きました。
君泊と大君口に残る、王府とのつながり
島には国王や聞得大君を迎えた場所の名前も残っています。
来島の際に使われた港が君泊(ちみんとぅまい)、集落への入口が大君口(うぷちんぐち)です。
港のそばを歩いていても名前の意味を知らなければそのまま通り過ぎていたと思います。
かつてここに船が着き王府の人たちが島の祈りの場へ向かったと聞くと、目の前の港にも歴史があるのだと分かります。

国王は島で何を願い、聞得大君や島の神女たちはどう関わったのでしょうか。
斎場御嶽との関係も含めこちらの記事でたどります。
島の祈りを受け継いできた人々
国王や聞得大君の話を聞いたあと、島で日々の祈りを担ってきた人たちのことも知りたくなりました。
久高島ではノロをはじめとする神人(かみんちゅ)たちが役割を分担して祭祀を行ってきました。
久高ノロ・外間ノロとは?
ノロは地域の祭祀を担う女性神職です。久高島には久高ノロと外間ノロという二つのノロの系統があります。
「ノロ」という言葉は聞いたことがあっても、久高島に二人のノロがいたことやどんな祈りを行う人たちなのかは私も取材前には知りませんでした。
王や聞得大君が訪れた場所には島で祭祀を担いながらその人たちを迎えた神女たちがいた。神の島と呼ばれる背景には祈ることを役割として引き受けてきた人々の存在もありました。
御嶽は人々が祈りを重ねてきた場所
御嶽は神々を祀る聖なる場所です。久高島には複数の御嶽や拝所があり、なかでもフボー御嶽は島の祭祀だけでなく王府の祈りにも深く関わってきました。
正直なところ、最初の私には御嶽の前に立ってもどんな場所なのか分かりませんでした。
ガイドさんからそこで祈ってきた人たちや行事について聞いて、ようやく「立ち入ってはいけない場所」という重みを受け止められたように思います。
今も大切にされている祈りの場所です。
フボー御嶽は通年立ち入りができません。ほかにも祭祀の時期などによって立ち入りが制限される場所があるので、公式の案内と現地の掲示を守ってください。

島の行事は続いている
久高島の女性たちが担ってきた祭祀を語るうえで、イザイホーも欠かせません。
12年ごとの午年に行われてきた儀礼で、島の女性が神女の集団へ加わるためのものです。最後に行われたのは1978年で、その記録映像も残されています。
集落にある御殿庭(うどぅんみゃー)はイザイホーや年中祭祀が行われてきた場所です。
イザイホーは中断していますが、久高島の祈りまで過去のものになったわけではありません。イシキ浜のウプヌシガナシーのように一年の中で願いと感謝を伝える行事は今も受け継がれています。
立ち入ることができない御嶽や参加できない行事に惹かれる気持ちは私にも分かります。
しかし実際に島を歩いてガイドさんの言葉を聞き、心に残ったのは行事そのものよりも背景にある文化や歴史、その場所を大切にしながら暮らしの中で祈りを続けてきた人たちそのものでした。
行事自体を見たり、参加したりすることはできなくても歴史を学ぶことで感じることはできます。


ノロやイザイホー、女性たちが担ってきた守護と祈りについてはこちらの記事で紹介します。
「神の島」は、今も人が暮らす島
久高島には家も畑も学校もあります。神話や祭祀について話を聞きながら集落を歩くと、島の人たちがどう暮らしを続けてきたのかも気になってきました。
ムトゥと土地を使いながら守ってきた人々
集落にはムトゥと呼ばれる始祖の家があります。血縁でつながる人々の元になる家で、祖先に関わる祈りの拠点でもあります。
土地にも久高島ならではの仕組みがあります。
国有地など一部を除き、島の土地は字久高(あざくだか)の総有とされています。住民はその土地を家の敷地や畑として使ってきました。かつて畑を割り当てて使った地割制度の歴史も残っています。
「島はみんなのもの」といっても、誰でも好きな場所を自由に使えるわけではありません。家を建てて作物を育て、島で暮らし続けるために土地の使い方や管理を決めてきたのです。
家や祖先を大切にすることと、土地を使いながら島を守ること。取材前は御嶽や行事に目が向いていましたが集落の家々や畑にも島を知るための話がありました。
子どもたちの声が聞こえる島
私が「ここも人が暮らす島なんだ」と強く思ったのは、集落に入って割とすぐ学校が目に入ったときです。
朝から子どもたちが庭でオオカミの遠吠えをまねして遊んでいて、その様子がとても可愛かったのです。
「神の島、久高島」への取材ということで少し緊張していましたが、子どもたちの声を聞いて朗らかな気持ちで歩き始めることができました。
商店では店番のおじいちゃんが「どこから来たの?」と話してくれました。取材中に「こんにちは」と声をかけてくれる人もいます。

イラブーを獲り
島を歩いていると「ウミヘビ見るか?」と話しかけてくれる人もいました。
突然のひと言に驚きましたが、久高島ではイラブーと呼ばれるウミヘビが昔から大切な海の幸なのだそうです。
獲ったイラブーは燻製にして保存し、だしを取ってイラブー汁などにして食べられてきました。島では海の向こうのニラーハラーからの贈り物として大切にされてきたといいます。
漁や燻製づくりは祭祀とも関わり、漁を始める日や燻製を終えた日には海からの授かり物に感謝を伝える儀式が行われています。
海から食べ物を得て保存し、いただく。その仕事に祈りが関わっていることも久高島の暮らしを知って驚いたことでした。

ムトゥや土地の仕組み、暮らしの中でのクバの使い方、イラブーや学校など島の暮らしについてはこちらの記事で詳しく紹介します。
初めて久高島へ行くなら、ガイドさんと歩いてほしい
御嶽を見ても港を通っても、その場所の意味を知らなければ私は気づかずに通り過ぎていたと思います。
ガイドさんと歩きながら話を聞いたことで、王府と島の関係や島の人たちが大切にしてきた祈りを実際の場所で知ることができました。立ち入ってはいけない場所や写真を撮ってよい場所をその場で教えてもらえたことも初めて訪れる私にはありがたかったです。
訪れる前には久高島公式サイトの「島のルール」も読んでおいてください。
御嶽や拝所の立ち入り制限を守ること。石や砂、植物などの自然物を持ち帰らないこと。畑や住宅の敷地へ無断で入らないこと。島の人たちが今も暮らす場所を訪ねるうえで大切なことです。
ガイドさんと歩いてよかったと思った理由や訪問前に知っておきたいことは、こちらの記事にまとめます。
私が久高島で知った「神の島」の意味
「神の島」という言葉やスピリチュアルなものにひかれて久高島を訪れることもあると思います。私自身、取材前は漠然とした噂しか知りませんでした。
実際に島を歩いて心に残ったのは、海の向こうへ麦の実りを願う話、国王が海を渡って祈りに来た歴史、祭祀を担ってきた女性たち、そして集落で出会った人々の暮らしです。
「なんか分からないけど、神の島だからすごい」で終わらせず、なぜそう呼ばれてきたのか、島の人たちが何を大切にしてきたのかも多くの人に知ってほしいと思いました。
学校の子どもたちの声が聞こえるこの島で、海へ願いを向けながら家や祖先を大切にして暮らしてきた人たちがいる。久高島に伝わる文化や祈りとともに続いてきた暮らしにもぜひ目を向けてみてください。

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参考文献・参考資料/取材
比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社〈集英社新書〉、2000年。
ジャパンサーチ「久高島の歴史と文化」(南城市教育委員会の公開資料などを紹介)
久高島ガイド友の会「なぜ琉球の人々は久高島を『神の島』と呼ぶようになったのか?」
東京文化財研究所「沖縄久高島のイザイホー映像デジタルアーカイブ」
取材:2026年9月24日、西銘政秀さんへの現地ガイド取材。久高島内での現地取材・撮影。
2026.10.20

