
久高島を歩きながら気になったことがあります。
琉球王国の政治の中心は首里にありました。それなのに国王や聞得大君は何故わざわざ海を渡って久高島へ来たのでしょうか。首里でも祈ることが出来るはずなのに島へ向かうことにはどんな意味があったのでしょう。
ガイドの西銘政秀さんは、かつて国王たちが使った港や祈りの場所を案内しながら王府と久高島の関係を話してくれました。
現地で聞いた話に加え写真家・比嘉康雄さんの『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』や公的な資料と祭祀の研究も手がかりにしました。首里城での祈りと久高島での儀礼をたどりながら王国がこの島を大切にした理由を考えてみたいと思います。

首里城は、政治と祈りの中心だった
王国が久高島で何を祈ったのかを知る前に、まず首里城の中を見てみたいと思います。
国王が政務を執り外国の使節を迎えた城には国や人々の暮らしの無事を祈る場所もありました。
城内最大の祈りの場「京の内」
首里城にある京の内(きょうのうち)は城内最大の祭祀の場です。祭祀とは神を祀り、祈りを捧げる儀礼のこと。
ここでは神女(しんじょ)と呼ばれる女性の祭祀者たちが王家の繁栄や航海の安全、穀物が豊かに実ることを祈っていました。
神事では王の健康や子孫の繁栄に加え船が無事に行き来できることや麦や稲が豊かに実ることも願われました。交易の船を海へ送り出し作物を育てて暮らす琉球の人々にとってはどちらも大切な祈りだったのです。
たとえば神女や役人たちがお参りする「百人御物参(ももそおものまいり)」では、正月に王の健康や子孫繁栄、航海安全、五穀豊穣を祈り、4月には夏の穀物が実ることも願いました。
首里城公園が紹介する『琉球国由来記』の記録では前夜の戌の時(午後7〜9時)に祈願の言葉「オタカベ」を唱えていたといいます。
私は首里城というと正殿や王座に目が向いていました。
でも京の内のことを知ると城の見え方が変わります。国王が政治を行う場所で神女たちも王や国のために祈っていたのです。

(引用:https://oki-park.jp/shurijo/digital_museum/detail/00139)
国王を守る祈りを担った「聞得大君」
聞得大君(きこえおおきみ)は王府の神女組織の最高位にあたる役職です。
国王を守るオナリ神として王の長寿や国の繁栄を祈りました。オナリ神とは姉妹が兄弟を守るという信仰で、王家でも女性の守護の力が重んじられていたのです。
各地の村で祭祀を担うノロに対し、聞得大君は王国全体の神女を統べる立場にありました。
神女の中で最も高い位にあたる人です。尚真王の時代に聞得大君を頂点として各地のノロを組織する体制が整えられました。
ガイドさんが話してくれた考察で印象に残っているものがあります。首里城の建築には本州の寺社と似たところがあり、祈りの空間としての性格が強かったのではないか、という話です。
説明の中で挙げていたのは正殿正面の唐破風(からはふ)でした。中央がふくらむ曲線を描いた屋根の形です。西銘さんは日光東照宮や東大寺を例に挙げ、寺社建築との似たところから首里城の祈りの場としての役割を考えていました。
寺院建築との似たところは首里城公園の公式解説でも紹介されています。正殿2階の王座を設けた壇は寺院で仏像を安置する須弥壇(しゅみだん)に似た形式だといいます。
正殿には国王が女官とともに毎朝東へ向かって拝む「おせんみこちゃ」という部屋もありました。
女官が抹香を焚き、火の神などを拝む場もあります。こうした実際の祈りの場を知ると建物の形から首里城の性格を考えた西銘さんの話も分かりやすくなります。
太陽が昇る東にある、久高島という聖地
首里にも祈りの場があったのに、なぜ久高島まで向かったのでしょうか。
その背景には島のある方角と琉球の始まりを語る神話がありました。
太陽とニライカナイの方角
首里から見て久高島は東方にあります。
太陽が昇る東は聖なる方角と考えられ、その先には神々の住む世界「ニライカナイ」があると信じられてきました。久高島は神々の世界に近い島として大切にされたのです。
琉球では太陽を「テダ」と呼び、国王も太陽になぞらえて神聖な存在と捉えられていました。王の力は政治の権限だけを指すのではなく神の加護を受けて国を治めるという信仰にも支えられていたのです。
その加護を王へ授ける仲立ちをしたのが神女たちでした。祈りによって王の長寿や統治を支える力が授けられると信じられていたということです。後で紹介する久高島での祝福もこうした考え方から行われました。
太陽が昇る東という方角は王府にとっても特別な意味を持っていました。その東の海にある久高島へ国王が祈りに向かったことからも太陽への信仰が王国に深く根づいていたことが分かります。
琉球の始まりと、穀物の実りを語る島
久高島には琉球の島々をつくった神・アマミキヨの伝承や、五穀の種が海の向こうから届いたという物語があります。島のフボー御嶽もアマミキヨがつくったと伝えられる聖地の一つです。御嶽(うたき)とは神を祀り、人々が祈りを捧げてきた場所を指します。
当時の人々にとって久高島は毎日の食べ物をもたらす穀物が最初に届いた島でした。
その始まりの地で神に実りを供え、これからの豊作も願う。そう考えると王府が久高島で農耕の儀礼を行ったことも分かりやすくなります。
伝来の物語は神話ですが、その島で国の儀礼を行っていたことは記録に残っています。
国王と聞得大君は、何を祈りに海を渡ったのか
国王が自ら出向くことを「行幸(ぎょうこう)」といいます。
久高島への行幸には聞得大君も同行し、穀物の実りに関わる儀礼が行われました。
麦の初穂を神に供えるために
久高島へ向かう目的の一つが麦のミシキョマです。
ミシキョマとは収穫した最初の穀物「初穂(はつほ)」を神に供える儀礼のこと。旧暦2月の麦の実る時期に行われました。
国王が島へ向かったのは初穂を受け取るだけでは儀礼が終わらなかったからです。穀物の始まりを語る聖地へ王自身が赴き、実りを神に供える儀礼に参加することに意味がありました。
琉球の歴史書『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』では、久高島で育った麦の献上が行幸の由来として語られます。
そして島では神女たちが国王の長寿を願い、神の加護を王へ授けると考えられた儀礼も行われました。王は祈りを捧げるとともに自分自身が祝福を受けるためにも島へ来ていたのです。
豊作を願うことと、国を治める王の無事を願うこと。久高島での儀礼ではその両方が大切にされていました。国王自身も祈りを受ける当事者だったのです。
王や国の無事を祈るというと大きな話に聞こえますが、その中には人々の食べ物が実ることも含まれていました。
久高島への行幸と、本島南部への巡拝
南城市教育委員会の整備基本計画では、国王は聞得大君や王府の役人たちを伴い隔年で久高島へ行幸したと説明されています。
旧暦2月には麦の初穂儀礼のため久高島などへ向かい、別の年の旧暦4月には稲の初穂儀礼のため斎場御嶽など本島南部の聖地を巡っていたのです。
麦と稲、それぞれの実りに合わせて聖地へ向かい、国土の安泰や豊作を願う。
王国ではこうした巡拝が行われてきました。久高島だけを単独で見るより本島南部の祈りの場との関係も知ると行幸の意味が分かりやすくなります。
王府ゆかりの場所
王府との関係は島の地名にも残っています。ここからは取材で教わった場所を見ていきます。
昔の航路については、祭祀の歌を集めた『おもろさうし』などから復元を試みた研究があります。
そこでは与那原から船を出し、馬天や斎場御嶽を経て久高島へ渡る道筋が想定されています。こうした記録も手がかりに島に残る場所を見ていきたいと思います。
君泊と大君口――王府の人々が使った港と入口
君泊(ちみんとぅまい)は国王や聞得大君が来島する際に使った港です。そこから集落へ入る場所を大君口(うぷちんぐち)と呼びます。
ガイドさんはこのあたりがかつてはきれいな砂浜だったとも話してくれました。
いまきれいに舗装された港、しかし以前はきれいな砂浜に国王や聞得大君を乗せた船が出入りし、ここから集落や祈りの場へ向かったのです。今の港の景色を見ながら昔の浜の様子も思い浮かべました。

アカララキ――島を守る魔除けの祈り
大君口の近くにあるアカララキは航海の安全を祈り、魔物や悪霊から島を守る御嶽です。
島の門番のような役割を持つ神として伝えられています。
外から来る人や船には魔物が付いてくると考えられ、島に入る前にこの神が魔除けをするのだそうです。
国王一行もこの港を使い、ここで祓いを受けてから島へ入ったという説明でした。
人を迎える港にも島を守る信仰が深く根づいていたのだと感じました。


フボー御嶽――王府も重んじた島の聖地
フボー御嶽は久高島の重要な聖地で、王府も国家的に重視していました。行幸の研究でも島内の祭祀の場として挙げられています。
国王が受けた祝福とは健やかに長く生きられるようにと、神女たちが神の加護を王へ授ける儀礼です。伊從勉さんの研究ではその加護を「長寿霊」と呼んでいます。
儀礼の意味を知る手がかりになるのが祈りの歌を集めた『おもろさうし』です。
神女が尚真王に長寿霊を授けることを謡った歌が残っています。神女の歌う言葉を通して王に長寿をもたらすと考えられていたのです。
王は豊作を願うために島へ来ただけでなく自らも長寿を祈ってもらう立場にありました。島の神女たちに迎えられて祝福を受けることも国王が聖地へ足を運ぶ大切な意味だったのです。
フボー御嶽は年間を通して立入禁止です。
中に入ることはできませんでしたが、ここが国王を迎え、島の人たちが祈ってきた場所だと教わりました。見学できる場所が限られていてもどんな歴史があり、なぜ大切にされているのかを知ることはできます。


国王の渡島が終わっても、続いた祈り
国王自身の久高島行幸は1673年に取りやめられ名代と呼ばれる代理人が祈りに向かうようになりました。
王が海を渡らなくなったあとも儀礼そのものは続いたのです。
この変更を進めたのは王府で政治を担っていた羽地朝秀(はねじちょうしゅう)です。
背景には島へ渡る際の海難の危険や国王一行を迎える人々と王府にかかる費用の負担がありました。神女の関わる儀礼を見直す、当時の王府の改革の中で行われた変更でもあります。
国王自身が渡らなくなっても久高島を大切にする祈りは続いていました。
代理人が島へ赴くほかに本島の斎場御嶽から海の向こうの久高島を拝む儀礼もあります。遠く離れた聖地へ祈りを捧げることを「遥拝(ようはい)」といいます。聞得大君の就任儀礼「御新下り」にも久高島への遥拝が組み込まれていました。
聞得大君の就任儀礼「御新下り」
聞得大君に就いたのは国王の姉妹や王女、王妃など王族の女性です。
初代は尚真王の姉妹・月清(げつせい)だったと伝えられています。王家の女性から選ばれ、国王を守り、王国の祈りを担う役目を引き受けたのです。
その就任にあたる儀礼が御新下り(おあらおり)です。斎場御嶽で行う御新下りは1677年以降に記録があり、首里から行列を組んで与那原や佐敷を経て知念へ向かいました。
斎場御嶽では夜を過ごし、大庫理(うふぐーい)という拝所で「お名付け」を受けました。
神としての名を授かり大君霊(せぢ)と呼ばれる霊的な力を受け継ぐ儀礼です。久高島への遥拝も行い、王と国を守る最高神女としての役割を担っていきました。
国王たちが船で久高島へ渡った行幸と斎場御嶽での就任儀礼は行う場所も目的も異なります。
久高島で実りに関わる祈りを行うことと対岸の聖地から島を拝んで聞得大君の力を受け継ぐこと。そのどちらにも王府が久高島を大切にしていたことが表れています。
さらに、斎場御嶽の国家的な祭事には久高島の白砂が運ばれ御嶽に敷きつめられました。
その中でも大きな行事が御新下りです。海の向こうにある島の砂が最高神女の就任を迎える場所にも使われていたのですね。

島への旅は、祈りの歌にも残った
祭祀の研究者・伊從勉さんは斎場御嶽で行うようになった御新下りの歌にも、久高島を往復する過程が表現されていると指摘しています。その場で実際に海を渡るわけではなくても歌の中では島への旅がたどられていたのです。
国王自身が海を渡らなくなってからも久高島への祈りは続いていました。
代理人を島へ送ることや対岸から拝むこと、島へ向かう道筋を歌うこと。方法が変わっても久高島は王府にとって大切な祈りの場だったのです。
尚徳王と久高島の神女にまつわる物語

久高島には儀礼の話のほかに、国王と島の神女の悲恋も伝わっています。
第一尚氏王統の最後の王・尚徳王(しょうとくおう)と、大里家(うぷらとぅ)の娘クニチャサの物語です。第一尚氏とは第二尚氏が始まる前に琉球を治めた王家を指します。
伝承では、久高島を訪れた尚徳王は神女クニチャサと恋に落ち、首里へ帰るのを忘れて島にとどまりました。その間に首里城ではクーデターが起こり、金丸が王位に就いたといいます。
知らせを受けて島を発った尚徳王は途中で首里城がすでに制圧されていると知り、海に身を投じました。王の死を知ったクニチャサも悲しみのあまり命を絶ったと伝えられています。
王が身に着けていた簪(かんざし)は大里家で祀られ、戦前まで残っていたともいわれます。二人とも命を落とす悲しい結末と、その後も王の簪を大切にしてきた島の人たちのことが心に残りました。
物語の中で二人の運命を変えた首里城の政変。沖縄県立博物館・美術館の解説では、尚徳王が亡くなったあとに金丸が政権を握り、第一尚氏王統が終わったとされています。王統交代の歴史を踏まえつつ、クニチャサとの悲恋は島に残る尚徳王の物語として受け止めたいと思います。
この悲恋は美しさゆえに悲しい結末を迎えたことから、久高島では女性は美人よりも普通がよいといわれるようになった、という話も添えられています。

王国の祈りを知って、もう一度久高島を見る
久高島は神々の世界に近い東の島であり、琉球の始まりや穀物の伝来を語る島でした。
国王や聞得大君が向かい、実りを神に供え、王や国の無事を祈ってきたことからも久高島と王府の関係の深さが分かります。
ガイドさんに歴史を教えてもらわなければ、私は今の船が出る徳仁港のことしか気にしていなかったと思います。しかし、島にはかつて国王や聞得大君の船が使った港、君泊もありました。
国王を迎えた島には祈りを担う人たちがいて、その場所を守ってきた暮らしがありました。
王国の時代が終わった今も、久高島には人々の生活と祈りがあります。次の記事では、土地を「島のみんなのもの」として守ってきた仕組みと、集落の暮らしを見ていきたいと思います。

取材・参考文献・参考資料
現地取材:2026年9月24日/ガイド:西銘政秀さん
比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社新書、2000年。
- 首里城公園「正殿周辺・京の内」
- 首里城公園「聞得大君御殿跡」
- 南城市「琉球王朝の信仰・精神性から読み解く久高島」
- 南城市『南城市歴史文化基本構想』第3章「基本構想のコンセプトと基本方針」、27頁。国王をテダとする思想、隔年の行幸、1673年以降の名代派遣について。
- 文化庁「国指定文化財等データベース:アマミクヌムイ」
- 南城市教育委員会『国指定 史跡斎場御嶽 名勝アマミクヌムイ斎場嶽(斎場御嶽)整備基本計画書』2022年3月、38頁ほか。
- 南城市教育委員会「斎場御嶽」
- 南城市「斎場御嶽とわたしたち」2020年10月号特集。
- 伊從勉「琉球祭祀にみる虚構と現実」『国際沖縄研究』1巻1号、2010年、35–50頁。行幸経路の復元、国王への長寿霊の授与を謡う歌(36頁)、1673年の行幸中止、御新下りの歌について。
- 久高区「久高島公式サイト:島の見どころ」
- 久高区「久高島にお越しになる方へ(島のルール)」フボー御嶽の通年立入禁止について。
- 久高島ガイドツアー「久高島関係神事祭祀等用語集」監修:安泉正祥/編集:西銘政秀。アカララキ、大君口について。
- 沖縄県立博物館・美術館「第一尚氏王統の時代とは」山本正昭、2025年6月24日。
- 首里城デジタルミュージアム「正殿|唐破風」資料ID305。建築部位の名称・形の確認。寺社との比較は現地ガイドの考察として記載。
- 那覇市歴史博物館「聞得大君御殿跡」。就任する王族女性と初代月清について。
- 池宮正治「琉球国王の神号と『おもろさうし』」。国王と太陽の霊力について。琉球大学学術リポジトリ。
- 宮城栄昌「沖縄の神女組織の確立」『横浜国立大学人文紀要 第一類 哲学・社会科学』12、1967年、10–38頁(行幸廃止の理由は27頁)。
- ジャパンサーチ「久高島の歴史と文化」(南城市教育委員会の資料を紹介)。フボー御嶽での儀礼、尚徳王とクンチャサの悲恋・簪の伝承について。
- 首里城公園「百人御物参(ももそおものまいり)」。『琉球国由来記』に記された祈願内容とオタカベについて。
- 首里城公園「在りし日の主要施設:正殿」。寺院の須弥壇に似た王座の壇、おせんみこちゃと御床での祈りについて。
2026.10.20

