
久高島の集落を歩いていて気になったことがありました。ほかの離島では移住してきた人の話をよく耳にするのに、ここではあまり見かけない気がしたのです。
ガイドの西銘政秀さんに尋ねると、移住してきた人もいるけれど少ないとのことでした。
なぜだろうと聞いていく中で知ったのが島の土地をみんなで管理する「総有地」という仕組みです。
島で暮らしたいと思っても土地を買って自由に家を建てる方法とは違うらしい。では島の人たちはどのように家の敷地や畑を使っているのでしょうか。土地の扱いを知ることが久高島の暮らしを考えるきっかけになりました。
今回は土地の総有制とその仕組みが残った歴史から島の暮らしをたどります。祖先を祀る家や、水場、海の仕事についても現地で聞いた話と比嘉康雄さんの本、公的資料をもとに紹介します。

久高島の土地は「みんなのもの」って、どういう意味?
久高島は国有地など一部を除く土地が島の人たちの「総有地」になっている島です。家の敷地や畑も、個人が土地そのものを所有するのではなく島で管理する土地を住民が使います。
沖縄では明治期の土地整理で土地の私有化が進みましたが、久高島は共同で管理する方法を残しました。なぜここではその方法が続いたのか。使い方を見たあとで島の女性たちが私有化に反対した話や土地憲章の制定をたどってみたいと思います。
土地を管理する島と、土地を使う住民
久高島では国有地など一部を除き、土地は字久高(あざくだか)の総有とされています。
ここでいう「字」は住民の自治組織のことです。住民はその土地を使い、家を建てたり作物を育てたりします。
土地そのものを個人の財産として持つことと、土地を使って暮らすことを分けているのです。「自分の家の敷地」であっても土地は島で管理するもの。この考え方が久高島の総有制の基本にあります。
家を建てるときも島で決める
では新しく家を建てたいときはどうするのでしょうか。
小川竹一さんが2014年の研究で整理した土地憲章では家屋の築造には土地管理委員会の決定と字会の承認が必要とされています。委員会は土地の利用や返還などを扱い、字会は住民が話し合う場です。
屋敷地は住まいの敷地として、農地は割り当てられた畑として利用します。農地を新しく使う場合にも委員会の決定と字会の承認が必要です。誰が何のために使うのかを島の中で確かめて決める仕組みになっています。
土地を使うには島で認められた利用者となる必要があります。小川さんの研究に整理された土地憲章では島外出身の定住者にも土地管理委員会と字会の承認を受けて利用者となる道が定められています。移り住む際にも島の人たちと土地の使い方を相談していくことになるのです。
短冊状の畑に残る地割制度の歴史
現在の土地の管理を知るには以前の土地の分け方も手がかりになります。久高島に残る細長い畑は「地割制度」の名残です。
畑を分け、次の世代へ渡す
地割制度は村落の田畑などを人々に割り当て、一定の期間がたつと割り替える仕組みです。
王国時代の琉球で行われ、久高島でも土地の配分に使われてきました。南城市は今も残る短冊型の畑を、その歴史を伝えるものとして紹介しています。
南城市教育委員会による解説では、戦前の久高島では16歳の男子に畑を割り当て、50〜60歳頃になると村落へ戻して次の世代に分配したといいます。一人分の畑は一か所にまとめず島内に小さく分けて配られました。
これは畑の土質や集落からの距離に偏りが出ないようにするためだったと考えられています。同じ広さを配るだけでなく、どこにある土地かも大切だったのです。

私有化をめぐる話し合いと女性たちの反対
明治期には沖縄で土地整理事業が行われ土地の私有化が進みました。久高島でも私有化について話し合われましたが、共同で土地を管理する方法が残りました。
南城市教育委員会の解説が紹介する伊波普猷の『沖縄女性史』には、私有化を決めた男性たちに女性たちが反対した話があります。当時、男性が漁業や海運で島を留守にする間、農耕を主に担っていたのは女性たちでした。自分たちが関わってきた土地を男性だけで処分するのはおかしい、という反対を受け、決議は取り消されたといいます。
この話で印象に残ったのは女性たちの反対が土地の扱いを変えたことです。暮らしを支える畑について、男性たちだけで決めるのはおかしいと声を上げ、決議を取り消させている。当時の女性たちにはそれだけの発言力があったのだと感じました。
島で管理する土地
戦後は女性も含む家族の人数に応じて家ごとに土地を配分し、継続して利用する形へ変わりました。昔のように年齢に合わせて畑を返し配り直す仕組みが今もそのまま続いているわけではありません。
以前は畑を配り直していましたが、戦後は各家庭が続けて使うようになりました。変わったのは誰にどの畑を使ってもらうかという決め方です。土地そのものは島で管理する、という考え方は残っています。昔の地割制度と今の総有制はその点でつながっています。
土地憲章に込められた島を守るということ
共同管理を慣習だけに任せず、文字にして確かめたものが久高島土地憲章です。土地を守ることと、住民が土地を使って生活すること。その両方に関わる決まりがあります。
1989年に土地の扱いを明文化
1989年に制定された土地憲章では、国有地などを除く島の土地が字久高の総有であることが明文化されました。南城市教育委員会は憲章に基づく管理が無秩序な開発から島を守る役割を果たしていると説明しています。
小川さんの研究でも、憲章はそれまでの慣習を整理するとともに新しい土地利用について合意したものと捉えられています。住む家や畑だけでなく仕事のために土地を使いたい場合もある。必要な使い方を考えるために規則も整えられてきたのです。
祈りの場所も、暮らす場所もある土地
島の土地には家や畑のほかに、御嶽(うたき)や井泉(ガー)、祖先を祀る家もあります。
御嶽は神を祀り、人々が祈る場所。井泉は水を得る場所であり、神事の前に身を清める場所にもなってきました。
例えば土地を使う人が決まっていても、その人だけの判断で土地の扱いを決める仕組みではありません。
新しく家を建てるときも、畑を使うときも、島での決定や承認を受けます。個々の暮らしに必要な土地を使いながら土地全体の管理は島に残す。その方法が御嶽や家々のある集落を守ることにも関わってきたのだと思います。
ムトゥと集落の家々
土地の使い方に加えて、集落には祖先から続く家のつながりもあります。その中心になるのが「ムトゥ」と呼ばれる家です。
子孫たちが祖先を祀る、本家のような「ムトゥ」
ムトゥは血縁でつながる人たちの始祖家で、本家のような家です。
そこから子や孫が分家して別の家を持っても、元の家とのつながりは続きます。ムトゥは子孫たちが自分たちの祖先を祀る場でもあるのです。
比嘉康雄さんは「久高島に於ける『家』『ムトゥ』について」で、祖先を祀る場所を住居の一室に置く家や別棟を設ける家を紹介しています。祖先への祈りが家族の暮らす家の中や同じ敷地にある。
先祖を大切にすることが生活に溶け込んでいるのだと感じます。
家並みの後ろにある祖先との関係
比嘉さんは集落について、北側に古いムトゥの家々があり、その南側に子孫の家々が広がる構造も指摘しています。集落に並ぶ家には家族が暮らしてきた時間と、そこから分かれていった人たちの歴史が重なっていました。
久高島で大切にされてきたのは海や太陽などの自然への祈りだけではありませんでした。
代々の先祖とのつながりや家族を守りたいという思いも家々の祈りに表れています。こうした思いを家族の中で受け継いできたことも久高島の文化をつくっているのではないでしょうか。
家や家系と関わりながら祈りを担った女性たちの役割や継承については、久高島の女性たちが受け継いできた祈り|オナリ神・ノロ・イザイホーをたどるで紹介しています。

水とクバが支えてきた、毎日の暮らし
家の中に祖先を祀る場所があるように、集落の外でも生活と祈りが重なる場所がありました。その一つが井泉です。毎日の水を得る水場のほかに神事の前に身を清めるための水場も大切にされてきました。
井泉は、暮らしの水と身を清める水

久高島では水場をガーと呼びます。かつての生活用水は西海岸にある井泉に頼っていました。
一方で神事のために使う井泉もあります。水場にはそれぞれ用途があり、どこでも同じように使っていたわけではありません。
イザイガーは島の西海岸側にある井泉で、神女となる女性たちがイザイホーの際に禊(みそぎ)をした場所です。禊とは水で体を清め神事へ臨むための行いのこと。そのための専用の井泉で他の用途には使わなかったと説明されています。
1978年の記録にも参加する女性たちが初日の早朝にここで沐浴し、村へ戻ったことが記されています。新しく神女の一員になるための儀礼を前に、まず身を清めていたのです。
ヤグルガーは同じ西海岸でもフボー御嶽の近くにある井泉です。五穀の種が入った壺をイシキ浜で拾う前にここで身を清めたという伝承があります。
なんじょうデジタルアーカイブの解説では、麦と粟の初穂祭に先立ち、祭祀を担うノロたちがここで禊をしたとされています。イザイガーは新しく神女になる女性たちの儀礼、ヤグルガーは穀物の初穂祭というように同じ清めの水でも使う人や関わる神事が異なっていました。
井泉を使い分けていたのは水を生活のために使うだけでなく、どの神事を迎える水場なのかも大切にしていたからだと受け止めました。
五穀伝来の物語とヤグルガー、ハタスの関わりはなぜ久高島は「神の島」と呼ばれるのか|琉球王国・祈り・暮らしから読み解く久高島で紹介しています。
クバの大きな葉を、日除けや器に
久高島はかつて「クバの島」と呼ばれたというほどクバが多い島です。クバはビロウというヤシの仲間。
西銘さんが編集する島の用語集にも久高島を指す「フボージマ」をフバ(クバ)の島とする説明があります。
フボー御嶽の「フボー」もクバに関わる名前です。
御嶽の周囲にクバが生い茂ることが「クボー」という名の由来とされています。クバ、クボー、フボーという呼び名にもこの木と島の深い関わりが残っています。
大きく広がる葉は日差しを遮り、器など暮らしの道具にも利用されてきたと取材で知りました。
沖縄のほかの島にも具体例が残っています。粟国村の民俗資料ではクバの葉を使った笠や水を汲む容器「クバジー」が紹介されています。
また、祈りの場でもクバの葉が使われました。1978年のイザイホーの映像解説には、祭場の建物をクバの葉で目隠ししたことが記されています。日々の道具にも祭祀にも同じ植物を使ってきたことに暮らしと祈りの近さを感じます。
クバを神の木として大切にしてきたことや葉の上に座って東へ祈る場面については久高島のニライカナイと自然崇拝|太陽・月・海に重ねる、暮らしの願いで紹介しています。

海の恵みを採り、加工し、分けてきた
では、海はどうだったのでしょうか。陸の土地を島で管理してきた人たちは海から受け取る食べ物をどのように扱ってきたのでしょう。イラブーとキスクには漁や加工の仕事に祈りが関わる話や、獲物を人々に分ける習俗が残っています。
イラブーを手で採り燻製にする
イラブーは食用にされてきたウミヘビです。久高島には、夜に海岸の岩場へ来るイラブーを手づかみで採る漁があります。昔の漁には女性たちも関わり、捕獲や加工は祭祀の役割とも結びついていました。
久高島振興会の紹介では、捕ったイラブーは茹でてうろこを取り、再び茹でて形を整えたあと、燻製小屋「バイカンヤー」で7日間燻します。火に使う植物や加工の技術も、口伝えで受け継がれてきたといいます。

漁を始める日や燻製を終えた釜出しの日には、海からの授かり物に感謝する儀式が行われるそうです。食べ物を採って終わりではなく、加工する仕事にも節目の祈りがありました。
燻製のイラブーは、戻してから汁物などに調理します。食卓に届くまでに、漁と加工を担う人たちの手間がかかっているのです。

キスクは漁に出なかった人にも分ける
キスクはアイゴの稚魚です。文化庁が1994年の選択当時の記録をもとに紹介する漁撈習俗では旧暦5〜6月の大潮に岸辺へ寄るキスクを海の神からの贈り物と捉えていました。
その解説には漁に参加しなかった人にも獲物を分ける習俗が記されています。みんなで受け取る海の恵みだったのです。こうした分配にも島で一緒に暮らす人たちの関係が表れています。
久高島のニライカナイと自然崇拝|太陽・月・海に重ねる、暮らしの願いでは海を祈りの対象として見てきました。漁の仕方や食べ物を分ける習俗を知ると、その海への思いが実際の仕事や人との関わりの中にもあったことが分かります。
学校と住まいから見る、今の久高島
受け継がれてきたものを知るとともに、これから島で暮らす人たちのことも気になります。久高島には今も小中学校があり島の外から学びに来る子どもたちもいます。
島の大人と子どもが一緒に海へ出る
久高小中学校では追い込み漁、久高島大運動会、学習発表会が三大行事として紹介されています。学校と家庭だけでなく地域の人たちも関わる行事です。
南城市の2026年7月号の特集には子どもと大人が一緒に追い込み漁を行う様子が載っています。海に張った網へ魚を追い込み、みんなで手繰り寄せる。その後は島の人に教わりながら魚をさばいて食べていました。
昔の漁の知恵が今の学校行事の中でも伝えられています。魚をどう捕り、どう食べるのかを、島の大人から子どもたちが教わる機会になっているのです。
島留学で暮らす子どもたちもいる
久高島では島外から子どもを受け入れる山村留学も行われています。留学生は久高島留学センターで共同生活をしながら久高小中学校へ通い、島の子どもたちと一緒に地域の行事にも参加しています。
沖縄県の2026年7月更新の案内では対象は小学6年生から中学3年生、期間は1年で更新も可能とされています。詳しい募集状況や生活の条件は県の離島留学案内から受入先を確認できます。
住み続けるために住まいを整える
土地を島で管理していても住み続けるには家や仕事、生活を支える環境が必要です。南城市は2026年度の施政方針で、若者の移住や帰郷、地域の担い手確保に向けた久高島の移住定住促進住宅の整備事業に取り組むとしています。
島で大切にされてきたものを次へ渡すには暮らす人が必要です。土地をどう守るかという話は、これから誰が住み、どう生活を続けていくかという課題ともつながっていました。
「島はみんなのもの」という言葉を考える

移住者が少ないように感じたことから知った久高島の総有地の仕組み。土地を個人で買って持つのではなく、島で管理する土地を使って暮らす。その方法が残ってきた背景には、私有化に反対した女性たちや土地憲章を定めた人たちの判断がありました。
家を建てるにも畑を使うにも島で話し合って決める。その土地には先祖を祀る家や神事を行う場所もあり、今の家族が暮らしています。総有地の仕組みを知って、島の人たちが守ってきたのは土地の広さや所有の名義だけではなく、そこで続けてきた暮らしなのだと思いました。
一方で帰ってきたい若者や新しく住む人のためには家や仕事を確保する必要もあります。大切な場所を守りながら次の人が暮らせるように使っていく。「島はみんなのもの」という考え方は、これからの島の暮らしを決めていくことでもあるのだと感じます。
久高島を訪ねるときはぜひ集落や畑にも目を向けてみてください。そこには観光で訪れる私たちとは別に、毎日の生活を営む人たちがいます。
次の記事ではガイドさんと歩いて知ったことや訪問するときに大切にしたいことをお伝えします。
取材・参考文献・参考資料
現地取材:2026年9月24日/ガイド:西銘政秀さん
比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社新書、2000年。
- 南城市教育委員会「久高島の歴史と文化」(ジャパンサーチ)。地割、私有化をめぐる議論、土地憲章について。
- 南城市「地割跡」。短冊型の畑と地割制度の名残について。
- 小川竹一「久高島の土地総有制の意義」『地域研究』13、2014年。土地憲章と利用・管理の仕組みは207頁ほか。
- 南城市『広報なんじょう』2017年11月号「久高島を知っていますか?」。土地憲章と島の暮らしについて。
- 比嘉康雄「久高島に於ける『家』『ムトゥ』について」『日本文化の深層と沖縄』国際日本文化研究センター、1996年、133–146頁。
- 比嘉康雄「久高島」『あまくま琉球』。集落とムトゥの配置について。本文の交通・人口・神職の在職情報などは執筆当時の記述を含む。
- 久高島ガイドツアー「久高島関係神事祭祀等用語集」監修:安泉正祥/編集:西銘政秀。ムトゥなどの用語について。
- 東京文化財研究所「イザイガーとウプティシヂ香炉の継承」。1978年12月14日の記録。
- 東京文化財研究所「祭場の準備」。1978年12月13日の記録。祭場でのクバの葉の利用について。
- 久高区「久高島公式サイト:島の見どころ」。ヤグルガーなどの伝承について。
- 南城市『南城市歴史文化基本構想』第5章、87頁。イジャイガー(イザイガー)の位置と専用の用途について。
- 南城市教育委員会「ヤグルガー」(なんじょうデジタルアーカイブ)。位置、穀物起源の伝承、初穂祭でのノロの禊について。
- 粟国村「粟国アーカイブス:クバジー」。クバの葉の容器利用の例。久高島固有の習俗とせず、沖縄の他地域の事例として紹介。
- 粟国村「粟国アーカイブス:民俗・文化/暮らし(衣・食・住)」。クバガサ・蓑について。
- 文化庁「国指定文化財等データベース:久高島の漁撈習俗」。1994年の選択当時の記録に基づく解説。
- NPO法人久高島振興会「久高島のイラブースープ」。漁・燻製加工と感謝の儀式について。
- 南城市立久高小中学校「久高幼小中学校三大行事」。
- 南城市「《2026年7月号》久高島とつながる」。追い込み漁、子どもたちと留学生の暮らしについて。
- 沖縄県「離島留学」2026年7月3日更新。対象学年・留学期間などは同案内の確認時点の情報。
- 南城市「令和8年度 南城市施政方針」。久高島移住定住促進住宅の整備方針について。
2026.10.20

