
道路いっぱいに横たわる大綱。
地域の旗頭が集まり東西に分かれた人たちが力を合わせる那覇大綱挽には引き込まれる熱気があります。
そのにぎわいは昔から途切れずに続いてきたものではありません。
戦争の時代を挟み戦後の開催を経て、1971年に市制50周年記念事業として復活。まちの発展とともに参加する地域や祭りを支える仕組みも広がってきました。
今回は那覇大綱挽が歩んできた歴史と本番の前から祭りをつくる人たちの仕事を紹介します。

那覇大綱挽は、どんな祭り?
那覇大綱挽は西の女綱(みーんな)と東の男綱(をぅーんな)をつなぎ、東西に分かれて引き合う伝統行事です。
綱挽の会場となるのは国道58号の久茂地交差点。地域ごとの旗頭行列や歴史上の人物に扮した「支度(したく)」の対決も祭りを構成する大切な要素です。
「支度」は歴史上の人物に扮した主人公とお供、旗持で構成される一行です。
綱挽に先立って東西それぞれの支度が登場し、綱の上で相手方と向き合い、見栄を切ります。
見栄を切るとは姿勢や表情を決めて自らの存在を大きく見せること。華やかな衣装だけでなく大きく構える身ぶりにも目を奪われます。
この対決は「支度我栄(したくガーエー)」と呼ばれます。
綱を引いて勝敗を決める前に人物に扮した演者が気迫を示す。旗頭の演舞、綱を合わせる作業、支度の対決を経て、いよいよ大綱を引き合う勝負へと進んでいきます。

旗頭の歴史や道具、演舞の技術を詳しく知りたい方は「旗頭とは?歴史・地域ごとの違い・演舞の見どころを紹介」へ。この記事では大綱挽そのものの歴史と開催を支える仕事に目を向けていきます。
那覇四町の大綱挽と、まちのにぎわい
いまは県内外から人が集まる那覇大綱挽。
その歴史の出発点には港を中心に栄えた那覇のまちと地域ごとの繁栄を願った人びとの暮らしがあります。
交易のまちで育った「町方の綱」
那覇大綱挽のもとになったのは琉球王国時代の「那覇四町綱」です。
那覇四町とは西村・東村・若狭町村・泉崎村のこと。現在の西町・東町・若狭・泉崎につながる那覇のまちを形づくった地域です。
沖縄の綱引きには力を競う楽しさに加えて作物の実りを願い、勝敗でその年の豊凶を占う意味がありました。
また、男綱と女綱を合わせることには陰と陽の結びつきや子孫繁栄の願いが重ねられています。大勢で綱を引く行為そのものが地域の暮らしを支える実りや命を願う行事でもあったのです。
こうした文化を土台に那覇では港と交易で栄えたまちの人びとが担う「町方(都市)の綱」が発展しました。
周辺の村々も「かしー(加勢)」として加わり、海の安全やまちの繁栄を願いながら東西に分かれて力を競いました。
発祥は1450年ごろとされていますが始まった年が確定しているわけではありません。農村の雨乞いや収穫の祭りと共通する文化を持ちながら海の安全やまちの繁栄への願いも重ねられてきた綱挽です。
1812年に制定された綱挽のルール
地域の誇りをかけた勝負は時に喧嘩や口論につながるほど熱を帯びました。
1812年には『那覇綱挽規模帳』という規則集が定められ、綱挽の進め方が整えられます。
その後に訂正・増補された規模帳には本綱や手綱の太さ・長さを定めること、双方で検分して手綱をそろえること、前日までに綱を仕上げて役人の検分を受けることなどが記されています。
火砲は高く揚げないようにし、特に観覧席の前では扱いを慎むという決まりもありました。綱のつくりから準備の締め切り、会場での振る舞いまで、大勢で祭りを行うための約束が設けられていったのです。
1929年にまとめられた慶留間知徳の『那覇古実集』にも綱挽にまつわる伝承が残されています。
例えば女綱が勝つと豊年になると考えられていたことや、毎年の綱挽を地域の大きな楽しみとしていたこと。勝負を楽しみながら暮らしに関わる願いも託していた様子がうかがえます。
同書には地域ごとの旗に書かれた文字も並べられています。綱を引いて豊年を願うことと地域を表す旗を掲げること。その両方が戦前から那覇の記録に残されているのです。

戦前から戦後へ。途絶と再興の歩み
地域の人が集まり力を競った大綱挽も、戦争の時代に途絶えました。
戦後、まちの暮らしが再建されていくなかで大綱を引くにぎわいも再び那覇に戻ってきます。
戦争によって変わった那覇のまち
明治以降は祝いの行事としても催された大綱挽ですが、戦争の時代に途絶えました。
戦後の再開を難しくしたのは戦争によって那覇のまちと人びとの暮らしが甚大な被害を受けたことでした。
1944年10月10日の空襲で旧那覇市内の約9割が焼失。翌1945年には沖縄戦があり人びとは住まいや仕事を失いました。祭りを開く前に、まず日々の生活を立て直さなければならなかったのです。
大綱挽の開催には地域の人たちが集まり、道具をそろえ、練習や準備を重ねる時間と場所が必要です。
生活の再建が急がれるなか、そうした祭りの準備に取りかかれる環境も整え直す必要がありました。大綱を引くにぎわいを取り戻すには地域の暮らしを取り戻す歩みが欠かせなかったのです。
1961年の開催と、1971年の復活
那覇大綱挽の歴史でよく紹介される「1971年の復活」は戦後初めて大綱挽が行われた年という意味ではありません。
それより前の1961年10月8日にも実は大綱挽は開催されています。当時発行された『今日の琉球』には、その日の写真が残っています。
写真の説明文には東西に分かれて約25分引き合い、東側の優勢勝ちと判定されたことが記されています。
大綱の周りを埋める人びとや旗頭を先頭に進む行列の姿からは、戦後のまちが徐々に復興し再び祭りに賑わった様子が伝わってきます。
それから時を経て市制50周年記念事業として1971年、那覇大綱挽は正式復活します。
1971年、現在につながる大綱挽が復活
1971年の復活には那覇市の誕生から50年を祝う意味と戦禍を経験したまちから平和を願う意味がありました。
当時の那覇の姿をたどってみましょう。
市制50周年と10月10日に込めた平和への願い
1971年10月10日、那覇大綱挽は市制50周年記念事業として復活しました。
沖縄が日本に復帰する前年、当時の平良良松(たいら・りょうしょう)市長のもとで行われたものです。
10月10日は1944年の空襲で那覇のまちが焼かれた日です。
大きな被害を受けたその日に人が集まり、大綱を引く祭りを復活させる。そこには平和への願いが込められていました。
くわえて1971年は沖縄が日本に復帰する前年。那覇市制50周年を迎え、翌年には沖縄全体が新たな節目を迎えようとしていた時期です。
まちの歩みを祝いながらこれからの暮らしを考える。そのような時代に大綱挽は再び市を挙げた行事として動き出したのです。
今回の取材では県内外や海外から来た人が入り交じり同じ綱を引いて夢中になる時間がありました。
大人になってから知らない人とこれほど一緒に熱くなれる機会はそう多くありません。そのにぎわいの背景に平和への願いがあると知ると、みんなで綱を引ける一日そのものがいっそう大切に感じられます。

那覇の祭りへ
もともと大綱挽を担っていた那覇四町は現在の那覇市の一部です。
戦後、那覇市は1954年に首里市・小禄村と1957年に真和志市と合併し、首里・小禄・真和志も同じ那覇市になりました。
1971年の復活では四町の綱挽の伝統を受け継ぎながら市域に加わった地域も参加する祭りへと広がりました。
昔の那覇の中心部で行われていた行事が大きくなった那覇市の各地域を結ぶ行事へと変わっていったのです。
現在は保存会に登録された東西7旗ずつ、計14旗の旗頭が集まります。
那覇大綱挽、那覇の歴史背景を知ったうえで観覧すると、それぞれの地域が受け継いできた旗を掲げ同じ大綱挽に参加する姿に感慨深いものを感じます。

那覇大綱挽の歩みを年表で見る
那覇四町の時代から戦後の再開、現在の祭りへ。主な節目を年表にまとめました。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1812年 | 『那覇綱挽規模帳』が制定される。 |
| 1929年 | 『那覇古実集』に綱挽の由来や地域の旗字を記録。 |
| 1944年 | 10月10日の空襲で、旧那覇市内の約9割が焼失。 |
| 1961年 | 10月8日に大綱挽を開催。『今日の琉球』に写真と説明が残る。 |
| 1971年 | 10月10日、市制50周年記念事業として大綱挽が復活。 |
| 1995年 | 大綱が初めてギネス認定を受ける。 |
| 2020年度 | 祭りは中止となったが、次の開催に備えて芯綱を新調。 |
本番までどう準備される?
あの大きな綱も、そろって進む旗頭の行列も、当日だけで出来上がるものではありません。
綱をつくる人、運ぶ人、地域で練習を重ねる人。会場に人が集まるずっと前からそれぞれの持ち場で準備が始まっています。
大綱を製作し、運び、使える状態を保つ
大綱が会場に据えられるまでには、材料を用意し、綱を製作し、出来上がった綱を運ぶという工程があります。
材料をそろえる人、綱づくりに携わる人、運搬を担う人。その仕事がつながって私たちが目にする大綱が会場に届きます。
綱は、会場に運んだあとにも準備が続きます。位置を整え、東西の綱を寄せ、端の輪を合わせてつなぐ。大勢が一斉に引ける状態になるまでにはいくつもの仕事があるのです。
編み目を近くで見ると幾重にも重なるわらと、大綱から伸びる「手綱」が見えてきます。
参加者が握るこの手綱も一人ひとりの力を大綱へ伝えるために人の手で作られたもの。迫力のある大きさとともに、人の手でつくられた細部にも目が向きます。

本番前には、製作した大綱を確かめる「製作検見(けんみ)」の日程も組まれます。
2026年は10月5日、那覇軍港内の製作現場がその会場とされていました。会場に運ばれた綱を見るまでにも準備は進んでいます。
祭りが中止の年にも、次の開催へ綱をつなぐ
祭りが開けない間にも次の開催を支えた人たちがいました。
2020年度、新型コロナウイルス感染症の影響で那覇大綱挽まつりが中止となりました。
しかし、保存会は大綱の芯となる「芯綱(しんづな)」の新調製作を進めています。前年に切れた芯綱をつくり直し、再び人びとが綱を引ける状態を整えるためです。
観客が集まる本番がなくても次に使う綱を用意する仕事は続いていました。その積み重ねが、ずっと那覇大綱挽を支えています。
旗頭の手入れや行列の練習を重ねる
各地域では大綱の準備と並行して旗頭各団体が本番に備えます。
地域のてぃぐまー(細工師)が製作、受け継いできた旗頭の手入れをし、旗持や楽器の練習を重ねる。
一団の演舞や行列をつくるために、それぞれの役割を確かめていきます。
子どもたちもその輪に加わります。2024年の泊小学校では1学期の後半から地域の人や青年会、PTAが行列の歩き方、楽器の演奏、旗頭の持ち方を教えるなど連携を取りながら進めていったことが記録として残っています。
取材で目を奪われた旗頭が傾いたときに周囲がすぐに支える動き、次の旗持へ受け渡す一瞬の連携。
一人の力だけでは成り立たない演舞だからこそ団体みんなで当日に備える時間が大切になるのだと感じます。
自分たちの旗頭を地域の仲間とともに会場へ。その意気込みが当日の気迫につながっているように見えました。


東西の綱をつなぐ
会場に綱を運び込んですぐに勝負が始まるわけではありません。
東西の綱を中央へ寄せ、それぞれの端にある輪「かぬち(頭貫)」を合わせ、「かぬち棒(頭貫棒)」を差し込んでつなぎます。
かぬち棒の管理や綱の接続を担当するのは「旗入れ(はたいれ)」、別名「頭貫人数(かぬちにんじゅ)」です。
参加者が手綱を握って勝負を待つ間にも中央では綱をつなぐ人たちが動いています。
本番前の綱寄せや接続にも注目すると大綱挽を支える仕事がよりよく見えてきます。
大綱挽の道具と役割を知る
綱をつなぐ場面や支度の対決を見ながら確かめられるよう主な道具と役割をまとめました。
| 用語・読み方 | 意味・役割 |
|---|---|
| 女綱(みーんな) | 西側の大綱。先端の頭貫の輪は男綱より大きい。 |
| 男綱(をぅーんな) | 東側の大綱。女綱と輪を合わせ、かぬち棒でつなぐ。 |
| 本綱(うふんな) | 女綱と男綱を頭貫棒でつないだ大綱。 |
| 手綱(てぃーんな) | 本綱に取り付けられ、参加者が握って引く綱。 |
| 頭貫(かぬち) | 女綱と男綱をつなぐために、それぞれの端に設けた輪。 |
| 頭貫棒(かぬちぼう) | 二つの頭貫に差し込み、東西の綱をつなぐ棒。 |
| 旗入れ(はたいれ)/頭貫人数(かぬちにんじゅ) | 頭貫棒の管理と、綱をつなぐ作業を担当する人たち。 |
| 支度(したく) | 歴史上の人物に扮した主人公と、お供、旗持の一行。 |
| 支度我栄(したくガーエー) | 綱を引く前に、東西の支度が見栄を切って対決する場面。 |


祭りを支える人たちと
大綱を用意し、旗頭をそろえ、会場へ人を迎える。
それぞれの働きがどうつながり、次の世代へ受け継がれていくのかを見ていきます。
保存会、地域、会場を支える人たちの分担
那覇大綱挽の主催は一般社団法人那覇大綱挽保存会です。
そこにあわせて、那覇市観光協会をはじめとする多くの団体や企業が携わって毎年那覇大綱挽、および那覇祭りは開催されています。
祭りを開くまでには準備があり、行列や綱挽が終わったあとには道路の清掃や片づけも待っています。会場で目にするにぎわいの前後には多くの人の尽力が続いているのです。
旗頭の力強い演舞や大迫力の大綱に目を奪われますが、その周りにはこの一日を無事にみんなが楽しく最後までやり切れるように動く人たちがいます。
那覇大綱挽当日は参加者全員でルール、マナーを守って最高のお祭りとして締めくくることができるよう心を配りましょう。

次の担い手へ
戦争を乗り越え、平和の願いのもとに復活して今もつづく大綱挽。
この祭りをこれからも続けるには新しく関わる人を迎え、活動できる場所を守っていくことが必要です。
旗頭の担い手が少なくなっていることに加え練習場所や保管場所を確保する難しさもあります。
教える人を育てたり、学校と地域の接点を増やしたりしながら経験を次の参加へつないでいくことも課題です。
運営する人、演舞する人、祭りを知ってもらうために広報をする人。
そして会場を訪れ、声援を送り、綱を引くお祭りの参加者。那覇大綱挽はみんながいてこそ生まれる祭りです。
急に大綱挽運営や旗頭団体にかかわるのは難しいかもしれませんが、現地で旗頭の演舞を見たり、気になった団体の発信を追ったりすることからでも文化を残していくことにつながります。
会場で大綱を引くときには準備してきた人たちの姿や那覇大綱挽の歴史にも思いを向けてみてください。
受け継いできた人とその日集まった人が、これからもみんなで平和な沖縄で一緒に祭りの続きをつくっていけることを願います。
参考資料
慶留間知徳『那覇古実集』(1929年)、琉球大学「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」/阪巻・宝玲文庫、本文31〜32頁
沖縄県公文書館『今日の琉球』第5巻11号(1961年11月)、閲覧画像14「那覇市の大綱引」
那覇市『那覇市勢要覧2011』「那覇市のあゆみ」、本文10〜11頁
那覇市『第5次那覇市総合計画』「十・十空襲、那覇大綱挽」の用語解説
那覇市『平成27年度沖縄振興特別推進交付金事業検証シート』「那覇大綱挽振興事業」
那覇市『平成29年度沖縄振興特別推進交付金事業検証シート』PDF15〜16頁「那覇大綱挽振興事業」
那覇市『令和2年度沖縄振興特別推進交付金事業検証シート』PDF19〜21頁「那覇三大祭り関連事業」
那覇市「2026年度 市長日程」(10月5日・大綱挽製作検見)
那覇市『文化芸術基本計画』第4章、本文39頁「地域のシンボル『旗頭』の保存・継承」
那覇市立泊小学校・2024年の学校だより(那覇大綱挽行列への参加)
島袋全発『那覇変遷記』(沖縄書籍、1930年)、本文199〜203頁「那覇綱引規模帳」/国立国会図書館デジタルコレクション
2026.10.29

